今日はみんなで映画を鑑賞しました。
タイトルは「桐島、部活やめるってよ」です。
正直、見てもらえばわかってもらえると思っていましたがあまりピンと来ていないようでした。
全体の10分の1が良い映画だったと言ってくれて、それ以外はあまりいい評価ではありませんでした。
たまには真面目に書かないと行けないかなと思いました。私の感想は続きを見てください。(ネタバレは回避しています)
「桐島、部活やめるってよ」というタイトルでありながら桐島は一度も出てこない。
このつくりはサミュエル・ベケットの書いた戯曲「ゴドーを待ちながら」という作品と似ている。
「ゴドーを待ちながら」はゴドーを待つ者たちの不条理かつ無意味な劇である。と私は解釈した。
この劇に対する評価はあまりにも難しいため私ごときには表面をなでるだけになってしまうので、私の話を真に受けないほうが良いことをここに注記する。
この劇は私たちがいったい何者なのか、何のためにいるのか(存在の不安)といったことに対して何者でもなく意味などないことを表現している。
この「桐島、部活やめるってよ」では高校生という、人生におけるモラトリアムの期間において存在の不安を意識させる出来事が起きる。それがタイトルにもあるように桐島という学校内カーストにおけるトップの突然の反逆である。
これは偶然だが、「ゴドーを待ちながら」におけるゴドーがゴッドに通じているというのに対し「桐島、部活やめるってよ」のキリシマがキリストと似ている。
しかし、「ゴドーを待ちながら」では観客に対して現実を投げかけるだけだが、「桐島、部活やめるってよ」ではある解決策が提示される。この解決策自体に賛否があるであろうが、私は賛成する。
ってこと書いたけど、実はここまでは解釈の話でどうでもいいっちゃどうでもいいです。
映画とか作品はもちろん解釈も大切だけど、それをどう扱うかというのこそが大切です。タランティーノとかゴダールはそこでこそ評価されているわけですし。
この作品はガス・ヴァン・サントの「エレファント」という映画のように、淡々とかつ中立的かつトリッキーに描いています。
その話は部室でしましょう。